大月市に生まれた清水三十六(しみずさとむ)少年は、四歳で父母とともに東京に転居します。小学校を卒業し、山本周五郎(やまもとしゅうごろう)商店に働きながら学問に励みます。やがて、店の主人の名前をペンネームにし、小説を書くようになります。

 小説を読む楽しみは、物語のなかに自分が入っていって、登場人物と同じ気持ちで読み進むことです。山本周五郎は、主として江戸時代の庶民の生活を描きました。 「貧困と病気と絶望に沈んでいる人たちのために幸ひと安息の恵まれるように」という思いを胸にたくさんの作品を残しています。 私達にも親しみやすい作品として「さぶ」「鼓(つづみ)くらべ」「内蔵允留守(くらのすけるす)」「赤ひげ診療譚(しんりょうたん)」「ちゃん」など、たくさんの作品があります。

  ここでは、貧しいながらも親子が助け合って生きていく職人の暮らしを描いた作品の一説を読みましょう。
「ちゃん」(父ちゃん・父親)と題した作品です。

 「ちゃん、はいんなよ」と良吉(りょうきち)なら云う。
「そんなところへすわっちまっちゃだめだよ、こっちへはいんなったらさ、ちゃん」
「はいれない、よ」
重(しげ)さんはのんびりという、「みんな遣(つか)っちまったんだから、一貫(いっかん)二百しかのこってないんだから、ああ、みんな飲んじまったんだからはいれない、よ」
 長屋はやはりしんとしている。まだ起きているうちもあるが、それでもひっそりと、聞こえないふりか寝たふりをしている。長屋の人たちは重さんと重さんの家族をす好いていた。重さんもいい人だし、女房のお直もいいかみさんである。十四になる良吉、十三になる娘のおつぎ、七つの亀吉(かめきち)と三つのお芳(よし)。みんな働き者であり、よくできた子たちである。重さんがそんなふうにくだを巻くのは、このところずっと仕事のまが悪いからで、そのためにお直や良吉やおつぎが、それぞれけんめいに稼(かせ)いでいるし、ふだんは重吉もおかしいほど無口(むくち)でおとなしい。

(「ちゃん」昭和33年2月)

写真 周五郎の言葉を刻んだ石碑。「貧困と病気と絶望に沈んでいる人たちのために幸ひと安息の恵まれるように」