展覧会


常設展のご案内

山梨県立文学館の収蔵資料は、山梨県出身・ゆかりの文学者を軸に、収集を進めてきました。資料は、直筆原稿や書簡、書画、愛用品、写真、著書など多岐にわたります。特に、樋口一葉、芥川龍之介、飯田蛇笏、飯田龍太の資料は、質量ともに国内有数のコレクションとなっています。
これら館蔵資料を作家ごとに紹介する常設展は、展示室AとBで御覧いただけます。

展示室A(第1室~4室)季節にあわせて年4回の展示替えを行い、館蔵資料からその期間だけの特別な資料を紹介するコーナーも設けています。

展示室B(第5室)104人の山梨出身・ゆかりの作家をジャンルごとに年2回入れ替えて紹介します。

室名をクリックすると各部屋の情報がご覧いただけます。

主な展示作家

山梨県出身の作家

名前をクリックすると詳しい情報がご覧いただけます。

  • 飯田蛇笏
  • 飯田龍太
  • 山本周五郎
  • 木々高太郎
  • 小尾十三
  • 中村星湖
  • 檀 一雄
  • 前田 晁
  • 深沢七郎
  • 李 良枝
  • 三井甲之
  • 山崎方代
  • 秋山秋紅蓼
  • 村岡花子
  • 徳永寿美子
  • 伊藤左千夫
    山梨の歌人たち
  • 飯田蛇笏(いいだ だこつ) 俳人 1885-1962
    飯田蛇笏

    山梨県笛吹市境川町生まれ。本名武治(たけはる)。生涯をふるさとで過ごし、山国の自然と風土に生きる心を十七文字の俳句に詠い続けた。近代俳句史を代表する俳人。10代の後半に東京へ出て早稲田大学に学びつつ、俳人高浜虚子に師事。帰郷した後、大正初年代に、虚子の主宰する雑誌「ホトトギス」誌上の俳句欄で活躍する。1915(大正4)年、愛知県で創刊された俳句雑誌「キラヽ」の投稿欄の選者となり、のちに主宰者となって誌名を「雲母(うんも)」と改め、活動の基盤とした。戦中から戦後へかけての壮年期には、句集・評論集・随想集など多数の著書を刊行し、多くの後進を育てる。一方で、5人の息子の内3人を、戦争と病で失う悲劇に見舞われており、戦後の作品には、その悲しみを乗り越えようとする強い意志が見える。歿後刊行された句集『椿花集(ちんかしゅう)』には、晩年の充実した詩心がみなぎっている。文学館のある芸術の森公園内に、初期の代表作「芋の露連山影を正うす」の文学碑が建つ。

  • 飯田龍太(いいだ りゅうた) 俳人 1920-2007

    山梨県笛吹市境川町生まれ。飯田蛇笏の四男として生まれる。東京の國學院大學在学中、病のため療養と復学を繰り返し、故郷で終戦を迎えた。3人の兄を戦争と病で失い、飯田家を継ぐ。やがて戦後の俳壇に伝統派の旗手として登場した。父蛇笏の歿後は「雲母」の主宰を継承し、日本の俳句界の次代の担い手として確かな位置を占めた。全国各地の句会に出席する一方、鑑賞・評論・随筆へと活動を広げ多忙な日々を送った。俳句だけでなく広く文芸全般への興味関心を広げ、歌人・詩人・小説家との交友も生まれている。中でも小説家の井伏鱒二とは、生涯にわたっての交流を結んだ。自然と人間への深い観照に裏打ちされた作品は、平易な表現の中に独自の豊かさを示した。第10句集『遲速(ちそく)』を刊行した翌年の1992(平成4)年8月、900号まで続いた「雲母」を終刊し、話題を呼んだ。以後、沈黙をまもったまま、86年の生涯を終えた。文学館のある芸術の森公園内に、「水澄みて四方(よも)に関ある甲斐の国」の文学碑が建つ。

  • 山本周五郎(やまもと しゅうごろう) 小説家 1903-1967

    山梨県大月市初狩町生まれ。本名は清水三十六(しみず さとむ)。周囲には父の出生地である韮崎市大草町を自分の出生地であると語っていた。1907(明治40)年、大雨による山津波で初狩が壊滅的被害を受け、一家で東京に移り住んだ。横浜の西前小学校を卒業後、東京の木挽町の山本周五郎商店に住み込み奉公した。筆名はここに由来する。1926(大正15)年、「文藝春秋」発表の「須磨寺附近」で大衆作家として出発。雑誌記者を経て、少女雑誌などに童話や小説を発表した。1943(昭和18)年9月、『小説日本婦道記』が第17回直木賞に推されたが辞退し、その後も多くの賞を固辞したため「曲軒」(きょっけん へそまがりの意)と呼ばれた。戦後、旺盛な創作活動を展開、庶民の哀感を描いた作品や歴史長篇小説は幅広い読者を得た。「樅ノ木(もみのき)は残った」「青べか物語」「さぶ」など劇化・映画化された作品も多い。故郷山梨を描いた作品に「明和絵暦(めいわえごよみ)」「山彦乙女(やまびこおとめ)」などがある。

  • 木々高太郎(きぎ たかたろう) 推理小説家・大脳生理学者 1897-1969

    山梨県甲府市生まれ。本名林髞(はやし たかし)。大脳生理学者パブロフのもとで条件反射の研究に従事する。壮年期に文壇に登場し、「人生の阿呆」で第4回直木賞を受賞。芸術性ある探偵小説を主張し、後に「推理小説」という言葉を提唱した。また、「三田文学」の編集に携わるとともに、直木賞選考委員をつとめた。晩年は詩にも取り組み、詩集を刊行した。

  • 小尾十三(おび じゅうぞう) 小説家 1909-1979

    山梨県北杜市須玉町生まれ。朝鮮の元山(ウォンサン)での教師体験をもとにした「登攀(とうはん)」によって第19回芥川賞を受賞する。戦後は出版社に勤務する傍ら執筆活動を行い、のち高等学校教師として教育に情熱を傾けた。山梨県芸術祭小説部門選考委員などを務め、後進の育成にあたった。

  • 中村星湖(なかむら せいこ) 小説家 1884-1974

    山梨県南都留郡富士河口湖町生まれ。本名将為(まさため)。山梨を舞台にした小説「少年行」が「早稲田文学」の懸賞小説一等になり文壇に登場。以後、自然主義の代表作家の一人として活躍。また、フローベル、モーパッサンなどの紹介に努める一方、大正デモクラシーの影響を受け、民衆芸術・農民文学にも造詣が深かった。戦後は山梨学院短期大学教授として後進の育成にあたった。

  • 檀 一雄(だん かずお) 小説家 1912-1976

    山梨県都留市谷村生まれ。幼年期まで山梨で過ごす。大学時代に発表した小説により作家として歩み始め、太宰治らと交友、また佐藤春夫に師事。「長恨歌(ちょうごんか)」と「真説石川五右衛門」で第24回直木賞受賞。歴史小説や各国に滞在した紀行文、料理の著書など、純文学から大衆文学まで幅広く自在な執筆活動を展開した。代表作「火宅の人」は約15年を費やし、亡くなる半年前に完成した。

  • 前田 晁(まえだ あきら) 評論家・翻訳家 1879-1961

    山梨県山梨市北生まれ。自然主義文学の一つの拠点であった「文章世界」(田山花袋主筆)の編集者として活躍する一方、自らも小説・翻訳・評論等を執筆。中でも『陥穽(かんせい)』に代表される翻訳は数多く、評価も高い。また、『クオレ』『少年国史物語』など児童文学も執筆した。妻は徳永寿美子。

  • 深沢七郎(ふかさわ しちろう) 小説家 1914-1987

    山梨県笛吹市石和町生まれ。旧制日川中学校卒業後、保険会社勤務、旅回りのバンドに入るなどして放浪生活を送った後、1954(昭和29)年、ギタリストとして日劇ミュージック・ホールに出演。1956年、姥捨伝説をもとにした小説「楢山節考」で第1回中央公論新人賞を受賞、小説家の三島由紀夫や正宗白鳥から高い評価を得た。その後、戦国時代の農民一家の生と死を淡々と描いた「笛吹川」やエルビス・プレスリーに熱狂する青年群像「東京のプリンスたち」など話題作を次々と発表した。1960年12月、「中央公論」に発表した「風流夢譚」を発端として、翌年中央公論社社長宅が襲撃される事件がおこったため、数年間、世間から身を隠し各地を転々とした。1965年、埼玉県久喜市にラブミー農場を開き、また、今川焼屋、焼きだんご屋を開業するなど多くの話題を提供した。1981年、『みちのくの人形たち』で第17回第谷崎潤一郎賞を受賞。

  • 李良枝(イ・ヤンジ) 小説家 1955-1992

    山梨県南都留郡西桂町生まれ。在日韓国人二世として生まれる。高校時代に考え始めた自らの民族の問題は、のち韓国を訪れるに至って小説へと表現されていく。「由熙(ユヒ)」で第100回芥川賞受賞。二つの国の間で揺れる心情を、母国の言葉、舞踊を手がかりとして作品とする手法に特色がある。あらたな自己を見いだし始めた矢先、若くしてこの世を去った。

  • 三井甲之(みつい こうし) 歌人 1883-1953

    山梨県甲斐市長塚生まれ。本名甲之助(こうのすけ)。正岡子規の短歌革新の精神を受け継ぎ、それを他の文学分野まで及ぼそうとした。小説・詩・短歌・俳句などに広い関心を持ち、評論家としても注目された。終生、生活に根ざした「求道」の文学をめざし、日本民族の伝統を現代に生かすことを願った。

  • 山崎方代(やまざき ほうだい) 歌人 1914-1985

    山梨県甲府市右左口町生まれ。少年時代より地元青年団活動の中で短歌を始める。1938(昭和13)年、母の歿後、病身の父とともに横浜に嫁いだ姉を頼って故郷を離れた。1941年、臨時召集で入隊、インドネシアのチモール島の戦線で右眼を失明し、左眼も視力の大半を失った。終戦後帰国、しばらく放浪の生活を続けながら短歌を創作して同人誌で活動。1972年より鎌倉市手広に住まいを定めた。1975年に雑誌「短歌」の第1回愛読者賞を受賞し、歌壇における評価が定まった。歌集に『方代』『右左口』『こおろぎ』『迦葉(かしょう)』、随想集に『青じその花』などがある。口語を生かした自由な歌い口が明るい哀調を帯び、人生やふるさとへの思いをこめた歌を多く残した。方代を顕彰する甲府の「方代会」と鎌倉の「方代を語り継ぐ会」では、それぞれ方代の忌日に合わせた催しを毎年行っている。

  • 秋山秋紅蓼(あきやま しゅうこうりょう) 俳人 1885-1966

    山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢生まれ。本名鉄雄。十代の頃から「ホトトギス」「国民俳句」「俳諧草紙」に投句する一方、山梨で「かふふ(甲府)吟社」を起す。荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)の新俳句運動に参加し、叙情的な自由律俳句を創作した。井泉水主宰「層雲」の選者となり、編集にも長く携わった。「俳句四格調論」などの評論活動でも知られる。

  • 村岡花子(むらおか はなこ) 児童文学者・翻訳家 1893-1968

    山梨県甲府市生まれ。本名はな。2歳の時、キリスト教のカナダ・メソジスト派の洗礼を受ける。東京移転後、1903(明治36)年、メソジスト派のミッションスクール東洋英和女学校に寄宿生として入学、英語力を磨いた。卒業後、山梨英和女学校に教師として5年間勤務。この間、初の作品集『爐邉(ろへん)』を刊行した。再度上京後、印刷会社経営の村岡儆三と結婚。1923(大正12)年の関東大震災、3年後の長男道雄の病死という苦難を乗り越え、初の本格的な翻訳『王子と乞食』(マーク・ツェイン原作)を刊行した後は、翻訳と童話執筆に精力的に取り組む。また、子供向けニュース番組を担当し「ラジオのおばさん」として広く親しまれた。1939(昭和14)年、カナダ人の友人から贈られた『ANNE OF GREEN GABLES』(モンゴメリ原作)を戦中から戦後にかけて翻訳、1952年、『赤毛のアン』として刊行するとベストセラーとなり、その後の続編も含めて花子の代表作となり、現在も広く愛読されている。児童教育や婦人問題などにも積極的に取り組んだ。

  • 徳永寿美子(とくなが すみこ) 児童文学者 1888-1970

    山梨県甲府市生まれ。本名前田ひさの。夫の前田晁に勧められて童話を書き始め、子供の通う成蹊学園の学園誌「母」への作品発表を契機に、本格的な執筆活動に入る。日常の親子の対話や自然との心のふれあいの中に題材を求め、母親の立場から書かれた作品は「おかあさん童話」と呼ばれた。児童文学の翻訳も多数手がけた。

  • 伊藤左千夫(いとう さちお)と山梨の歌人たち

    伊藤左千夫は正岡子規の歿後、根岸短歌会の中心として、「馬酔木(あしび)」を創刊した。たびたび山梨を訪れた左千夫に、岡千里(おか せんり 1882-1952)、日原無限(ひはら むげん 1885-1930)、神奈桃村(かんな とうそん 1871-1936)らが指導を受け、初期「アララギ」で活躍し、その歌風は本県の歌壇にも広く影響を与えた。

山梨県ゆかりの作家

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  • 芥川龍之介
  • 樋口一葉
  • 井伏鱒二
  • 太宰 治
  • 田中冬二
  • 中里介山
  • 辻 邦生
  • 八木義徳
  • 武田泰淳
  • 芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) 小説家 1892-1927
    芥川龍之介

    東京都生まれ。父新原敏三・母ふくの長男として生まれ、のち、母方の伯父芥川道章(どうしょう)・儔(とも)夫妻の養子になる。幼少期から読書を好み、回覧雑誌を作るなど文学に親しんだ。1916(大正5)年、小説「鼻」が作家の夏目漱石に賞賛され、文壇に登場。古典を題材にした「芋粥」「地獄変」から、同時代の現実を描いた「蜜柑」「秋」などへと作風を変え、最晩年の「玄鶴山房」「歯車」には生きることの苦しさや病的な精神の風景が描かれている。1927(昭和2)年7月24日未明、「ぼんやりした不安」の一語を残して自殺。時代の動揺を象徴する死として大きな衝撃を与えた。山梨へは少年期に徒歩旅行などで何度か訪れ、成人してからは、1913年、北杜市長坂町の清光寺(せいこうじ)で開かれた夏期大学で「人生と文芸」について4日間の講義を行った。山梨県の俳人飯田蛇笏と親交があり、俳句や短歌、詩の佳品も残している。

  • 樋口一葉(ひぐち いちよう) 小説家・歌人 1872-1896
    樋口一葉

    東京都生まれ。本名なつ。両親は山梨県甲州市塩山の農家の生まれだったが、幕末期に江戸へ出て武士の身分を手に入れ、父則義は明治維新を経て東京府の官吏となった。明治初期の東京で生まれ育った一葉は、少女期から文学への関心を深め、私塾「萩の舎」塾で和歌や古典文学、千蔭流の書を学んだ。兄と父が病歿した後は、母と妹との貧苦の生活を支えるために作家をめざし半井桃水に師事。20歳の年に「闇桜」で作家として出発した。その後、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など、社会の底辺で生きる人々や、封建的な社会を生きる女の運命を描いた作品で認められ、高い評価を受けたが、病のため24歳の若さで亡くなった。

  • 井伏鱒二(いぶせ ますじ) 小説家 1898-1993

    広島県生まれ。本名井伏満寿二(いぶし ますじ)。1923(大正12)年、同人雑誌「世紀」に「幽閉」を発表、これは後に加筆されて代表作のひとつ「山椒魚」となる。庶民の現実をユーモラスな筆致で描き、1937(昭和12)年、「ジョン万次郎漂流記」により第6回直木賞を受賞。戦後は戦争の愚劣と戦後の混乱を鋭く批判する作品を執筆し、1965年、原爆の悲劇を描いた「黒い雨」で第19回野間文芸賞を受賞した。東京の井荻村(現在の杉並区清水)に居を構えた1927年以後、山梨をたびたび訪れ、渓流釣り、戦争中の疎開、飯田蛇笏・龍太父子との交友などを通じて山梨の自然・歴史、風土に親しみ、「侘助」「甲斐わかひこ路」「小黒坂の猪」「岳麓点描」などの随筆や小説を残した。

  • 太宰 治(だざい おさむ) 小説家 1909-1948

    青森県生まれ。本名津島修治(つしま しゅうじ)。1930(昭和5)年、東京帝国大学仏文科に入学。1935年「逆行」が第1回芥川賞候補となり翌年『晩年』を刊行したが、芥川賞の落選や同棲していた女性との心中未遂などにより精神の不安定を生じた。1938年、山梨県御坂峠の天下茶屋で執筆を再開。翌年、山梨県立都留高等女学校教師の石原美知子と結婚。8ヶ月間の甲府での新婚生活の間「富嶽百景」「女生徒」などを執筆。9月に東京の三鷹に転居した後もしばしば甲府を訪れ、戦中は甲府に疎開中に甲府空襲に遭遇した。戦後三鷹に戻って「斜陽」「人間失格」など戦後文学を代表する作品を発表したが、1948年6月、山崎富栄と玉川上水に入水、19日の39歳の誕生日に遺体が発見された。1953年10月、御坂峠に「富嶽百景」の一節「富士には月見草がよく似合ふ」を刻んだ文学碑が建てられた。

  • 田中冬二(たなか ふゆじ)と山梨 詩人 1894-1980

    福島県生まれ。本名𠮷之助(きちのすけ)。失われゆく日本の風物を愛し、旅を題材に詩作。山梨の各地を訪れたが、特に早川町奈良田や増富温泉、富士北麓の村々に心をひかれ、詩や随筆を多数残している。山里のさりげない風物にこまやかな神経を注いだ作品が多い。

  • 中里介山(なかざと かいざん)と山梨 小説家 1885-1944

    東京都羽村市生まれ。本名弥之助(やのすけ)。27年間にわたって書き継がれた未完の大作「大菩薩峠」は、主人公机龍之助の遍歴を通じ、独自の世界観、宗教観を表現した。山梨は重要な舞台となっており、介山は何度か山梨を訪れ、大菩薩嶺の山腹に建てられた「勝縁荘」「三界庵」でも執筆を行っている。

  • 辻 邦生(つじ くにお)と山梨 小説家 1925-1999

    東京都生まれ。本籍は山梨県笛吹市で、祖先は代々医家であった。フランス文学研究者を経て、30代の終わりに文壇に登場、西洋や日本の歴史を題材に、自身の理想を実現しようとする人間の姿をロマン性豊かに描いた。父親の死を契機に、小説「銀杏散りやまず」を執筆。山梨における一族のルーツと歴史を辿った。

  • 八木義德(やぎ よしのり)と山梨 小説家 1911-1999

    北海道生まれ。父親は笛吹市春日居町に生まれ、北海道室蘭で病院を開業。「劉広福(リュウカンフウ)」により第19回芥川賞受賞。「母子鎮魂」「私のソーニャ」など自らの体験を昇華させた私小説作品は、父の墓参に笛吹市一行寺を訪れた様子を描く「風祭」に結実し、代表作となった。妻・正子の故郷でもある山梨に触れた作品を数多く発表している。

  • 武田泰淳(たけだ たいじゅん)と山梨 小説家 1912-1976

    東京都生まれ。戦争中の中国体験を「審判」「ひかりごけ」などに描き、戦後作家としての地位を確立した。1964(昭和39)年に建てた南都留郡鳴沢村の「富士桜高原」で、小説「富士」を執筆。戦争直前の富士山麓の精神病院を舞台に、人間の正常と異常の問題を鋭く描き、代表作の一つになった。